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目に見えないけど確実にあるもの、関係性、相対性の中に現れるもの
人間が、人間同士の、意識の中に、意識し合う他人との関係の中に、ゆえに人間が存在するからこそあるもの(人間がいなくなれば消え去ってしまうもの)、そういう意味で、人間だけが、他の動物とは違う、特殊な存在であって、親鸞マルクスで名和達宣さんが言っているように、ゆえに人間には責任がある
人間が、人間同士の、意識の中に、意識し合う他人との関係の中に、ゆえに人間が存在するからこそあるもの(人間がいなくなれば消え去ってしまうもの)、そういう意味で、人間だけが、他の動物とは違う、特殊な存在であって、親鸞マルクスで名和達宣さんが言っているように、ゆえに人間には責任がある
目に見えないけど確実にあるもの
価値
プレステの価格が、A店では45,000円、B店では40,000円であった。どちらも新品で性能には違いはない。では、プレステは、A店のほうが5,000円プラスの価値があるのか?
↓
そんなことはない。どちらも同じ性能だ。価値は同じ。かといって、C店で「プレステを10円」で売ることはあり得ない。
「プレステなんだから、最低でも40,000円前後はするよね?」
という、みんなの常識、社会的な意識、いわば価格の重心のようなものが存在する。
それがマルクスの言う「価値」だ。
そこには、「これを作るのに、従業員が何時間働いて、人件費がどれくらいかかった」「材料の仕入れはこれくらいだったから、それも加味すると最低でも○円だ」「今の経済状況や、みんなの様子を見ていると、これくらいの値段が妥当だろう」という、人間だけができる皮膚感覚、すべての事情を総合的に判断して、社会におけるそのモノの評価(≒価格)を思い描く行為がされている。だから、価値には(その社会状況における)需給も加味されている。
値段づけとは
「めっちゃ苦労して作ってたけどソレ、もし売るとしたら何円?」
と聞かれて値付けをする行為(価格を決める行為)、それは実は恐ろしいこと、社会的な行為、をしている(実は「名前をつける」という行為も、似たような、社会的な(大それた、恐ろしい)行為である。ちなみにだが)
価格をつけるとき、
・それは本当に売れるのだろうか?
・ゼロ円?それは無い!こんなに苦労して作ったのに!とか
・いやいや、これは売り物じゃない!心を込めた大切なものだ!or自分のため(家族のため)に作った内向きなものだ とか
・その値段にしたら誰かに迷惑かからないか? とか
いろいろ考える。そのことが「社会的」な行為そのものであって、そのときに考えること、感覚、頭に思い描くこと、感情、気持ち(を踏まえること)は、人間だからできるのであって、AIには絶対にできない。
その複雑性は、人間の脳だけではなく、皮膚感覚、記憶、感情、思いやり、気持ち、全てを総動員して「感覚として」決める行為であって、いかにAIが発達しようとも、擬人化されたロボットができてこようとも、「言葉を得て、肉体をもっている、人間」がすることには到底及ばない。社会的な行為、とはそういうこと。
そういう人間が、感覚として「高い、安い」とか「表に(社会に)出すべき、いや出さないべき(個人的なものだ)」とか、売り物だとしても「売れそうだ、いや高すぎる」「いや、質が低すぎる」とか、いろいろ考えてする「値付け(価格を決める)」という行為は、社会の中に、交換の中に、それを解き放つにあたって、そのものの持つ「価値」に、他人に認識できる(目に見える)数字すなわち「価格」をつける行為であって、社会に解き放つ最初の一歩、恐ろしい行為、社会的行為をしている。
このときヒトは、感覚として、目には見えないが確実にあるもの、つまりそのものの「価値」を皮膚感覚で測っていて、それは「価格(目に見える数字)」とは違う、そのものが他人にとってどれくらい有用なのか、社会においてどれくらい必要とされているのか?を感覚の中で図る行為であって、いわばイデアというか、目には見えないけど確実にある「価値」というものを脳みそで測って、形にして、数字にしてつけたものである。
目には見えないけれども確実にあるもの、としてもう一つ、プラトンのいう「イデア界」に通じるかもしれないが、親鸞とマルクス(https://www.youtube.com/watch?v=VqpKSzFiY04 において、名和氏が触れた「棍たい」という言葉がある。「たい」は「帯」ではない。帯だと目に見える連帯のことになってしまうが、「たい」は「目には見えない、見えないけれども、地上ではバラバラに生きている個人それぞれ(煩悩を抱えて、私が!私が!と生きている)が、しかし根っこのところで、根源的な連帯をしている、目にはみえないけれども感じられている繋がり、それが「根たい」だという。
価格を決める行為をするときに頭に描く、目には見えないけれども確実にある「価値」であったり、普段は意識することもないが確実にある「他人との繋がり、根たい」であるとか、どちらにも共通なのは、それが人間だけが感じられるものであって、人間が存在しなくなれば(例えば原子爆弾でいまこの瞬間に全人類が消え去ってしまえば)全く存在しなくなるものである、ということ。いわば、人間が、人間の脳みそで作り上げたものである。しかし、確実に存在しているのだ、というところだ。
これを聞くと、じゃあ「存在する」って何よ、頭の中だけに描いたことが存在で、物理的に「在る」ということは実は存在していなくて、認識しているもの(人間が脳で知覚している)ものだけが存在している=知覚ゆえに存在がある、ということになっちゃうの!?そんな馬鹿な!という疑問がまず湧くだろう。
確かに。その疑問ももっともなんだけど、けど量子力学を詰めていけばやはり「見えている、だから存在する」「見えていないうちは、在るか無いかは不確実で、観測したときに初めてモノはそこにある」「Aさんにとってそこにあるイスは、Bさんにとっても確実にイスとしてあるのではなくて、Bさんがイスとして知覚して初めてあるのであって、つまり、知覚する人(人間)それぞれの文脈(見え方、捉え方、人生)の分だけ事実があるのだ、という理解は、実は最近は主流になってきていて、そう考えると「知覚するゆえに存在がある」「人間が、頭で描いているだけの、それぞれの相互の関係から生み出されるもの=社会性、相対性の世界にあるもの(価値)は、確実に、在る、存在する」「それを加味してモノにつけた価格、その価格をつけるさいに考えたモノの価値、皮膚感覚で感じるモノの価値、価格の根源=重心となるもの」は、目には見えないけれど、人間が存在して、脳みそで考える(想起する)ことを、大量の、ものすごい大量の人間(Aさん一人ではどうしようもないくらいの他人(BやCやDや…数億人の人間)が、それぞれ好き勝手にやった結果できあがったのだ=社会的なものなのだということ、そして、その「値段をつける」という行為は、目には見えないけれども確実に在る「価値」というものを、社会の中に可視化する、恐るべき行為であると言える。