柄谷行人。天才か。
「この(商品の相対的な価値表現の)形態…それは未完成であるどころか、”完成された”もののなかで見失われた原初の光景なのだ。」
「マルクスの弁証法的・目的論的叙述とは逆に、われわれは彼が見出したこのヴィジョンに固執すべきである。なぜなら、それだけが、本質あるいは概念といった超越論的なものが転倒にほかならないことを示唆するからである」
これは衝撃だった。
秋。
木の葉が落ちる。イチョウが散る。
たくさんのイチョウの葉に一つとして「完全に同じ形のもの」は存在しない。
マルクスは言う。
「1枚の木の葉が、他の1枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、さまざまの相違点を忘却することによって形成されたものであることは確実なのであって」
「このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに、自然のうちに『木の葉』そのものとでも言い得るような何かが存在するかのような観念を呼び起こすのである」
これに対し柄谷行人は
「概念といった超越論的なものが転倒にほかならない」
という。
つまり柄谷は
「現実があって→そこから概念や哲学や理想が生み出されているのが現実」
なのだから
マルクスが言うような
「概念や哲学や理想があって→そこから現実が生まれるのだ」
という考え方は
現実を逆に理解して(転倒して)いるのだと言っている。
本当にそうだろうか。
今、政治が狂っている。
哲学を捨て去った自公維新の即物的な政治。目先のカネや見せかけのポイントに終始し、実体である民の生活に目を向けていない。
これは、本来のあるべき政治の形(看護、介護、保育、障害福祉で働く方への収入の引き上げにこそ1兆8,000億円を使うべきだ)を無視して、現実に目に見える価値(貨幣、カネ、ポイント)だけを重要視する、狂った思考が起こしている悲劇だ。
この、本来のあるべき形を「超越論的な転倒にほかならない」と言ってしまうと、それは、即物的に目の前の貨幣価値から発して、それだけを追い求める政治の姿勢を許容することになってしまう。
そうではないだろう。
概念・哲学といった超越論的なものは、実体として即物的に目に見えなくても現にそこにある。それは転倒ではない。
概念・哲学をもって、そこからあるべき現実の形を紐解くのが、全体を良くするための姿勢だろう。
哲学を指標としなければ、まともな政治は来ない。バラバラになってしまう。