「おれの人生に醜女なんて一人も存在しなかったんだ。これがおれの信念だよ」
「どんな女だって、ほかの女には見つけられない非常に面白いものが見つけられるものなんだ」
「ただしそれを見つける能力が必要だ。才覚って言ったっていい!」
「女ってことだけでもう全体の半分はカバーしてるんだ」
…
ビッシバシくるね。
女性差別とか、そういう話じゃなくて。そんなの超えて、純粋に、高潔に、女性を尊敬する態度が見て取れる。
文学って素晴らしい。
「おれの人生に醜女なんて一人も存在しなかったんだ。これがおれの信念だよ」
「どんな女だって、ほかの女には見つけられない非常に面白いものが見つけられるものなんだ」
「ただしそれを見つける能力が必要だ。才覚って言ったっていい!」
「女ってことだけでもう全体の半分はカバーしてるんだ」
…
ビッシバシくるね。
女性差別とか、そういう話じゃなくて。そんなの超えて、純粋に、高潔に、女性を尊敬する態度が見て取れる。
文学って素晴らしい。
「価値」なるものは無く、相違なる使用価値の関係が、もっと正確に言えば『差異のたわむれ』が根底にあるだけなのだ。
シンフィアン(意味するもの)=使用価値=等価形態(=貨幣)=差異
シンフィエ(意味されるもの)=価値=相対的価値形態(=商品)
人間が追いきれない、複雑な
使用価値(シンフィエ)と
使用価値(シンフィエ)との
差異のたわむれ
が価値形態だとすれば
その戯れを「すべて記録する」ブロックチェーンによって、差異が可視化され、剰余価値が生み出される瞬間を記録できていれば、ビザンチン問題の難問の一つの解となったビットコインのような実装をもって、貨幣の本質とその現象する不思議さを解明できるのではないか。と。
ふと思った。
非中心化。中央が無いのに統率が取れている。それがビットコインの特徴。
それは、古くは2月革命の時代から実社会への適用(実現)が望まれてきたものなのではないか。
ただ、その望まれてきた社会、つまり中心がない=無政府である社会はしかし、統率が取れないという意味ではない。
仮に政府がなくたって人は中心を作り出す。
中心は体系そのものに残っているから。
その「中心」を人に求めてしまうと、つまり「人治」になってしまうと、スターリンや北朝鮮みたいになるのではないか。
じゃあ、「人治」じゃなければいいのでは?
「中心のない」社会が維持される「仕組み」を作り出せればいいのでは?
それがビザンチン問題を解決したビットコイン(ブロックチェーン)の発想なんじゃないかと思う。
カネがほしい!と、それぞれの個人が、自分の利益を最大化しようとすればするほど(政府や中心がなくても)全体が維持されていく。その仕組みが社会に応用されれば、これ以上理想な状態はない。
しかし、その理想とされる形はつねに
時の権力によって危険視され弾圧されてきた。
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」からも、その記述は見て取れる。
人々が自由に、それぞれが好きなように(自己の利益の最大化ばかりを目的に)動ける社会、それが資本主義だ。
同時に他人と他人の関係になってこその資本主義社会である。それだからこそ資本主義は発達する。
「秋深し 隣は何をする人ぞ」(松尾芭蕉 1694年)
この俳句は、日本に資本性社会が芽生えた時のその社会の変化を鋭く捉えた歌なのではないか?と思っている。
資本性社会になったということはつまり、共同体での限界を超えて「他人と他人で作る」社会に、つまり無縁の社会なったということだ。
無縁=他人と他人=「他人の時間を尊重し、自分とは別の時間軸で、他人が動く。それぞれが関係しながら動く」。だから資本主義は発達する。
他方で、その無限の欲望は、自然も、人自身も、社会も、壊していってしまう。斎藤幸平の指摘するとおりだ。
しかしそこに「コモンを復活」することは、本当にできるだろうか?
ハッキリ言って「人には無理」だと思う。
それを「人が」やろうとすると、結局スターリンや北朝鮮になってしまいそうで。
「人が」それをできると思っている時点で、人間の能力への過度の期待というか慢心があるような気がしてならない。
資本主義がここまで発達し、同時に世界を壊せたのは、誰か人間個人の能力ではない。陰謀や思惑でもない。それは資本主義という「仕組み」だからだったと思う。
だから、「コモン復活」は大賛成なのだが、それを人がやるんじゃなくて、それぞれの個人が身勝手に自己の利益を最大化しようと(マイニングみたいに)頑張る結果、全体の利益が最大化され、としてコモンが復活するような仕組み(ブロックチェーンの維持)を、社会に実現できればいいんだろうと思っている。
だからどうすりゃいいの?と言われても、分かんない。
んな簡単に答えられるなら、誰かやってる。
そんな一朝一夕ではないだろう。
しかし、何かやり方はあるはずだ。
一方向にしか挿さらない電源プラグのように
一度走り出したら自動的にコモンが再生され続ける(再生されざるを得ない)ような。
罪深き人々の尽きることのない強欲ゆえに、社会が健全に維持され続けるような、そんな逆説的(だが、真の意味で健全な)エネルギーの置き換え方法を、人間は考え出せると思う。そう信じたい。
ビットコインは、それがまだ479,769円のときから着目していた。
2017年。
単なるカネ儲けの道具としては見ていなくて。
サトシナカモトの理論に純粋に感動したから。
で、今年。
2021/12/1 ビットフライヤー社がビットコインが貯まるクレカを発表した。
これは契約する価値があると見た。
スタンダードとプラチナが選べる。
年会費16,500円が年間150万円以上の利用で無料になる。
手持ちのクレカで今年はいくら使ったか?
11月末時点の明細を集めてザッと計算してみると
おう。170万円超えている。
ということは、複数枚あるクレカを解約してbitFlyerクレカに消費を集約すればプラチナにできるわけだ。
プラチナで申し込むことにする。
還元率はプラチナでも1.0%。低い。
しかしまあ、年間で150万円使ったとすれば1.5万円分のビットコインになる。
ところで
2017/10/5時点で479,769円であったビットコインは
2021/12/4(本日)時点で5,419,892円になっている。
4年で実に10倍以上になった。
ビットコインは発行上限に達する段階で「最大でこれくらいの額にはなるだろう」という予測が自分の中にある。
ちゃんと読んだ人はみんな同じくらい(額の)予測を持っているだろう。
仮に、今回契約するクレカの還元で、年間1.5万円=4年間で6万円 のビットコインが付与されたとして、それを寝かせて10倍になったとすれば、40万円になる。銀行に預けとくよりははるかに良い。
他のクレカと比較してみても、例えばLINE Payクレジットカードは年間2%還元なわけだが、それはLINEポイントで還元されるだけなので増える余地がない。ビットコインで付与される方がはるかにマシだ。絶対コッチを取る。
SBIにボロクソにされた新生銀行か…
保身に走る経営陣。なんというクズさ。
まあいいや。今回はお付き合いすることにしよう。
申し込み完了。
先着6,000名までは500円分のビットコイン付与特典がある。
2021/12/1(このクレカが発表された当日)即座に申し込んだわけだから、500円は付くだろう。
引き落としの口座設定もしちゃう。
完了。
あとは待つだけ。
公共料金から日々の支払いから、すべてこれに集約させて、いくらのビットコインが毎月還元されるのか。続報は来月。
yt-dlpであろうがyoutube-dlであろうがCUIなわけだから、インターフェースとして例えばこういうのはすぐ作れるわけで
こういう動きをみても
各社や団体が同じような機能を実装してるであろうことは想像に難くない。
ツベは玉石混交ではあるが、こういう素晴らしいのもあるわけで
勉強になる。
とっときたい。
仮にこうして
こうなるとしよう。
$ ps aux | grep -v grep | grep yt-dlp
$ ps aux | grep -v grep | grep yt-dlp | awk '{print $2}'
これでプロセス番号が取れるわけだ。
そうすると当然、そのDLプロセスがどこまで進行してるか知りたくなる。
yt-dlpは当然プログレスを標準出力に吐いてるんだから、それを確認できればよい。cat でファイルディスクリプタを覗いてやればいいみたい。
$ ps aux | grep -v grep | grep yt-dlp
$ ps aux | grep -v grep | grep yt-dlp | awk '{print $2}'
$ tmp=$(ps aux | grep -v grep | grep yt-dlp | awk '{print $2}')
$ echo "$tmp"
$ cat /proc/"$tmp"/fd/1
$ cat /proc/"$tmp"/fd/2
素晴らしい。
これでモニタリング。
$ for i in $(seq 1 10); do echo "$i"; cat /proc/"$tmp"/fd/2; sleep 30; clear; done
永久保存版
柄谷行人。天才か。
「この(商品の相対的な価値表現の)形態…それは未完成であるどころか、”完成された”もののなかで見失われた原初の光景なのだ。」
「マルクスの弁証法的・目的論的叙述とは逆に、われわれは彼が見出したこのヴィジョンに固執すべきである。なぜなら、それだけが、本質あるいは概念といった超越論的なものが転倒にほかならないことを示唆するからである」
これは衝撃だった。
秋。
木の葉が落ちる。イチョウが散る。
たくさんのイチョウの葉に一つとして「完全に同じ形のもの」は存在しない。
マルクスは言う。
「1枚の木の葉が、他の1枚に全く等しいということが決してないのが確実であるように、木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、さまざまの相違点を忘却することによって形成されたものであることは確実なのであって」
「このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに、自然のうちに『木の葉』そのものとでも言い得るような何かが存在するかのような観念を呼び起こすのである」
これに対し柄谷行人は
「概念といった超越論的なものが転倒にほかならない」
という。
つまり柄谷は
「現実があって→そこから概念や哲学や理想が生み出されているのが現実」
なのだから
マルクスが言うような
「概念や哲学や理想があって→そこから現実が生まれるのだ」
という考え方は
現実を逆に理解して(転倒して)いるのだと言っている。
本当にそうだろうか。
今、政治が狂っている。
哲学を捨て去った自公維新の即物的な政治。目先のカネや見せかけのポイントに終始し、実体である民の生活に目を向けていない。
これは、本来のあるべき政治の形(看護、介護、保育、障害福祉で働く方への収入の引き上げにこそ1兆8,000億円を使うべきだ)を無視して、現実に目に見える価値(貨幣、カネ、ポイント)だけを重要視する、狂った思考が起こしている悲劇だ。
この、本来のあるべき形を「超越論的な転倒にほかならない」と言ってしまうと、それは、即物的に目の前の貨幣価値から発して、それだけを追い求める政治の姿勢を許容することになってしまう。
そうではないだろう。
概念・哲学といった超越論的なものは、実体として即物的に目に見えなくても現にそこにある。それは転倒ではない。
概念・哲学をもって、そこからあるべき現実の形を紐解くのが、全体を良くするための姿勢だろう。
哲学を指標としなければ、まともな政治は来ない。バラバラになってしまう。