気になったところメモ
労働の二重性
カネになる=交換価値を生み出す労働
=一般的抽象的労働
役立つもの=使用価値を生み出す労働
=有用労働
カネになる=交換価値を生み出す労働=一般的抽象的労働=量(時間)で測る
役立つもの=使用価値を生み出す労働=有用労働=質で測る
交換しても1万円のものは1万円のまま。
交換によって価値は増えない。
交換=流通によって価値は増えない。
しかし
交換=流通によって価値が増えなければならない。
交換=流通によって価値が増える=剰余価値が発生しなければならない。
そうでなければ「資本」と言えない。
資本とは「流通によって価値が増える(という運動の)こと」だから。
交換だけでは価値は増えないのに、しかし
交換の場で、価値を増やさなければならない。
この矛盾。
ここがロドスだ。
この矛盾を解決するのが「労働力」という商品。
それを使うとその交換価値が増大するという特殊な役立ちかた(使用価値)をもつ特殊なモノ=特殊な商品である。
それ(労働力)を使う(=労働する)と、その(労働力の)交換価値(つまり売り値)が増大するという、特殊な役立ちかた(使用価値)をもつ、特殊なモノ=特殊な商品が労働力である。
交換するだけで剰余価値を生み出す特殊な性質を持った商品。
それこそが労働力である。
その労働力こそが価値の源泉であり、資本蓄積の本源である。
歌い踊る労働のなかで、どこか毎日疑問を感じながら、しかしその原因は分からず、それでもしっかりと価値を生み出し続けさせられる人々。
人間労働から搾取してきた人間(秋元やパソナ竹中)は、おそらく、実は誰よりも資本論を読んでいるだろう。
最悪の形で、資本論を読み、実践している。
価値増殖過程
価値増殖(という手品)がどうやってなされるか。
綿花から
糸を作る、
と言う労働を想像してみる。
from 綿花 to 糸 だ。
① 最終製品である糸の要素となったもの、つまり原料となる綿花自体の性質=利用価値=使用価値(フワフワしているけど、ヨリ合わせてツムぐと、糸を作り出すことができるという性質)は、最終製品である糸の中に含まれている。
さらに
② 糸を作り出すために原料(綿花)に対してされた労働(=ヨリ合わせたりツムいだりといった加工に使った時間)も、糸の(交換)価値に含まれている。
つまり、完成品である糸の中には
①綿花の使用価値と
②綿花を加工する労働の交換価値(値段)
が含まれている。
綿花から糸を作るために働いた給料は、日給1万円だったとしよう。
それは、その働き(=労働力の実現=労働)の価値だ。
労働力の価値と、労働が作り出したもの(糸)の価値は違う。
労働力の交換価値(労働できる能力がいくらで売れるか)と
労働力の使用価値(労働できる能力)を発揮した結果(=労働)が作り出したもの(糸)の交換価値は違う。
その差が資本家(=雇い主、例えば社長)の利益だ。
6時間働かせれば、従業員は明日も生きていける。
6時間分の給与で、食う寝る遊ぶの最低限はできるからだ。
しかしそこで
12時間を働かせる。
6時間働かせれば、従業員(=労働力という商品の提供主)は明日も生きていける。
だから払うのは6時間分だけだ。
そういう雇用契約だから。
労働力の売主(従業員)はその契約で買主(=飼い主=社長)と合意したのだから。
6時間分の給与で、食う寝る遊ぶの最低限はできる(=労働力の再生産ができる)からだ。
しかしそこで
12時間を働かせる。
労働力の交換価値(=労働力の再生産ができるための最低限の支払い)
つまり6時間(に対して支払われる給料)
と
労働過程によって作り出される商品の交換価値
つまり12時間(で作られた商品の交換価値=売れる値段)
は
違う。
ここで価値は増える。貨幣は資本に転化する。蓄積の元になる。
労働力という商品は、それ自身が持っている価値よりも大きな価値(を作り出すミナモトつまり)源泉だ、という特殊な性質(使用価値)を持つ。
だから、交換するだけで価値が増える。
そんな手品のようなことが実際に起きる。
労働力は、それを売れば、売るだけで、その流通によって、価値が増える。
"商品の死んだ対象性に生きた労働力を合体することによって、
価値(すなわちすでに対象化された過去の死んだ労働)を、
資本(すなわち自分自身を増殖する価値)に
転化する"
"活気づけられた怪物(=資本)に転化する"
労働の二面的性格がもたらすもの。